8月は、ジェイスポーツの取材で主要チームの夏合宿を回った。網走、オーストラリア、ニュージーランド、菅平である。
網走ではトップリーグのチームを軸に取材した。サントリーは、昨年無冠に終わった危機感からかチームの結束力を感じた。どのチームからも聞こえたのは、接点での「激しさ」である。今季もボール争奪戦はタフなぶつかりあいになるということだ。優勝候補筆頭は東芝府中。これを神戸製鋼が追う展開か。開幕戦の直接対決が楽しみだ。
さて本題である。NZでは北島のオークランドでワールドを取材したあと南島のクライストチャーチに行った。坂田好弘氏(現・大阪体育大学教授、ラグビー部監督)の取材のためだ。8月20日、21日と、クライストチャーチではカンタベリー・ラグビー協会の125周年式典が行われ、坂田氏は日本人として唯一この式典に招かれていたのである。
1968年、日本代表の一員としてNZ遠征に参加した坂田氏は、当時NZでNO2の実力を誇った「オールブラックス・ジュニア(23歳以下NZ代表)」から4トライを奪い、歴史的勝利の原動力となる。168㎝の体躯で背を丸めて突っ走り、急激にストップしたかと思うとすぐに加速する「チェンジ・オブ・ペース」にNZのディフェンダーはきりきり舞い。翌年には、単身ラグビー王国に乗り込み、カンタベリー大学クラブのWTBとして大活躍。カンタベリー州代表まで上り詰めた。
1969年のカンタベリー州代表には、NZ代表が7名含まれ、HOタニー・ノートン(現NZ協会会長)、FBファギー・マコーミック(現カンタベリー協会副会長)、FLアレックス・ワイリー(元NZ代表監督)ら伝説の名選手が揃っていた。坂田氏の偉業は、だからこそ輝くのである。
8月21日、約600名が参加したディナーパーティーには、啓江夫人と現在カンタベリー大学大学院でスポーツ社会学を研究する長男の博史君をともなって出席。多くのNZ人が伝説のWTBに駆け寄って挨拶し、その知名度の高さを伺わせた。
博史君から面白いエピソードを聞いた。ある日の休日、博史君が友人とプールに行くと、年配のNZ人男性と出会った。ただ横に座ったからという理由で他愛のない話をした。
「最近は日本はラグビーの代表は弱くなって、サッカーの代表のほうが頑張っているんだ」
「でもな、日本のラグビーも強いときがあったんだよ。1968年にオールブラックス・ジュニアに勝ったんだから…」
博史君は、その時のWTBが僕のお父さんなんだと説明し、話は大いに盛り上がったという。NZジュニア戦の快挙は、NZ人にとっては今でも語り継ぐべき伝説の試合だったということだ。この話を日本の人がどれほど知っているかを考えると、両国のラグビー文化の差を痛感させられる。
日本ラグビーにも、語り継ぐべき試合はたくさんある。少なくともラグビーに携わる者は、語り継がなくてはいけない。日本の快挙は日本人で語り継いでいきたいではないか。それが日本にラグビー文化を根付かせる唯一の方法なのだから。8月21日の夜もまた、日本ラグビーの伝説の1ページだった。立ち会えて幸せだったし、その出来事を語り継いでいきたいと思う。