ジョン・カーワンヘッドコーチ率いる日本代表は、 9月に開催されるラグビーワールドカップに向けて急ピッチの強化を進めている。また、海外のラグビーシーズンもクライマックスを迎えているのだが、これについては現在進行形なので、一区切りつく5月下旬に書くことにしたい。
きょうは、ある哲学の話を。僕は、小学校 5年からラグビーを始めた。人生に必要なことは、ほとんどラグビーから学んだと思っている。それを言葉にするのは難しいのだが、先日、ラグビーのみならず、スポーツの価値について思いを至らせる日があった。2007年3月25日〜4月21日にかけて、早稲田大学の西早稲田キャンパス2号館にて、『荒ぶる魂 大西鐵之祐と早稲田ラグビー』なる展示が行われた。プログラムの表紙にはこうある。
《戦後の早稲田ラグビーを再建すると共に、傑出した理論で日本ラグビーを世界に知らしめた、大西鐵之祐。「大西魔術」と呼ばれる采配で幾多の試練を乗り越えた、その人間像に迫る》
大西さんは、 1934年、早大第二高等学院入学とともにラグビー部に入部し、36年、37年と早大の全国制覇にバックローとして貢献。卒業後は東京芝浦電機に入社も、すぐに近衛歩兵第四連隊に入隊し、マレー作戦、シンガポール上陸作戦、スマトラ侵攻作戦など、南方戦の最前線で戦った。スマトラで敗戦を迎え、捕虜収容所で教育の重要性を考え続ける。帰国後、早稲田大学の東伏見グラウンドに通ううち、ラグビーへの情熱が再び燃え上がり、早大理工学部鋳物研究所に奉職。のちに教授となる。1950〜54年、62〜64年、81年の計3回9年間にわたって早大ラグビー部の監督を務め、1966年から71年まで日本代表監督。数々の栄光を手にしている。1995年没。
僕は、生前の大西さんに何度かインタビューをしているし、その著書でもその哲学をある程度は知っている。あらためて展示を拝見し、大西さんが生涯をかけて取り組んだ哲学「闘争の倫理」を多くの人に伝えねばならないと思った。展示期間中は、連日、大西さんの最終講義( 1987年)の映像が流されていた。そこではこんなことが語られていた。
「スポーツを通じて文と武が相対抗しながら、両立しなければいかんというのです。とにくリーダーは、頭だけやったらあかんというて(日本でも)文武を両立させてきた。外国ではスポーツと学問を両立させてきたのです。ところが、日本では明治以来、武、スポーツは体育に包括され、教育の中に入ってしまって、方向を誤ってしまった。スポーツは身体作り、健康を作るんだと、まるで体力作りなんだという考え方。これが非常に悪い。だから、スポーツをやっているやつは頭がねえんだということになる。
そうではなくて、情緒的な行動の訓練の場は、スポーツの中にしかないと僕は思うんです。人間が生死のコントロールをどうやっていくかを訓練する場は、スポーツしかない。スポーツの場には危険がある。危険があるからスポーツは教育的価値がある。
きちんと指導すれば、子供はその危険を克服していくのです。その緊張の中に人間ができていくと僕は思う。勝負とはまさにそういうもんだと思います。
ラグビーで、ボールを持っているやつがタックルされて倒れておる。そこへ次々に行ったやつは、ボールと頭をいっしょにボーンを蹴ってしもうたら向こうはのびる。そいつが強いヤツだったら、こちらは勝ちます。でも、そういう時に怪我をさせて、あくる日に果物を持って病院に行き、見舞うときの気持ち、じつに嫌ですよ。もうそれだけで絶対に悪いことはせんという気持ちになるんです。僕はそれがスポーツの良さだと思う。実際にスポーツをやっている時には、二律背反の、ええことと悪いことの選択を迫られる場に必ずおかれる。その時に、自分の意思でいいほうを選択していく。これがフェアです。すでに決まっている基準によって決めるのではなく、自分で決めるのです。ルールに従うのは、フェアじゃありません。ルールは人間が作ったものです」
一部分の抜粋なので、大西さんの言わんとすることをここで書ききることはできない。端的に言えば、大西さんは、スポーツを知性的な行動だと言い、スポーツのゲーム性、勝負のところを重視する。その真剣勝負のなかで、汚いことはしない、自らフェアかどうかを判断できる人間を作っていくことが重要であり、知性的な行動と情緒的な行動をコントロールできる人間こそがナショナルリーダーになっていかなければいけない、ということを説いている。そして、自らの戦争体験から「いったん戦争になってしまったら人間はもうだめだ。その前にそういう状況にならんようにする人間を作っていかなければならない」と訴える。
「フェアとは、きれいか、汚いか」。納得である。自分が真にフェアな人間かどうか、自信はないけれど、少なくとも子供たちに、フェアということについて語れる人間でありたいと思う。